太田雨晴観光協会

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絵で見る太田雨晴

川と水を求める人々
このあたりの方言でプライドが高いことを「じまんくさい」といいますが。当地のお国自慢もなかなかのもの。地名・字名だけで伊勢領(伊勢神宮領の名残か?)西田(サイダとよむ西大寺領の名残か?)を始め、殿山、殿谷など自分の土地をたたえる地名に事欠きません。特に「太田」の地名通り、古墳時代から近世の武田家まで続いた美田を自慢する地名が目立ちます。ところが、時の権力者が必ず自分の地にした穀倉地帯なのに現在では大きな川が見あたりません。代わりに、増川、増井、古川などの水を待ち望む名字が多く、ご不動さんなど水関連の石像が目立ちます。江戸時代の地図を見ると確かにはっきりとした川が氷見の潟湖に流れ込む様子が見て取れます。現在はため池を中心に「美田」を守っていますが、ご先祖様はずいぶん水にご苦労なさったようです。

越の国の姫と言えば、古事記から沼河比売(ぬなかわひめ、越の国の女神.奴奈川姫と書く場合もある)とヒスイのお話がでてきます。この地、雨晴からの絶景は大伴家持も「見れども飽かず 神からならし」とか「月夜飽くてむ 馬しまし停め」とあきれて歌に詠むほど、きっと沼河比売も愛でたことでしょう。
ちなみに富山湾の沖合の地下100キロメートルくらいにはヒスイの大鉱床が眠っていると言われています。500℃程度でゆっくり冷える蛇紋岩層のそばで結晶したのがヒスイです。富山湾沖はこの適地だと言われています。でも地球上で最も深い鉱山でも地下数キロメートルですからひと山あてようと掘るには難儀でしょうが。
ところで、よく中国物産展などで布袋様をほった緑の石を「ヒスイ」という場合がありますがあれは軟玉(ネフライト)。ヒスイとは別物です。もしあんな深緑のヒスイ(ジェダイト)があれば何億円もするはず。で、ヒスイの堅さをご存じですか。硬度約7.5、これはナイフの鋼より堅いんです。ダイヤモンドをまぶしたカッターでしか切れない、減らない石を砂岩だけで磨き上げた縄文人には感心します。  大陸文化が入った弥生時代や古墳時代にはあまりの堅さに加工性が悪く、使わなくなったヒスイです。古くから世界中でひすい(硬玉)を使用した文化圏は日本とメソアメリカの二つしかなかったのもうなずけます。気の長い民族にしか加工できないのかもしれません。

矢穴石の謎
大きな男岩そして・・・義経の伝説が残る義経岩、それってどこにあるの? 観光客の方によく訪ねられますが、この女岩だけは誰もがご存じ。日本の百景にも数えられる姿は海に浮かぶ立山連峰の庭石として最高のアクセントです。で、その岩のなかに四角い穴がきれいに並べてあけてあるいわがいくつも発見できます。通称「矢穴石」と呼ばれていますが、最近の調査では、戦国時代から高岡城築城の頃と年代がほぼあうのではと言われています。大きな岩を割って築城の材料にする名残といわれています。
高岡城は石垣だけを築造したとき「一国一城令」により廃城の憂き目にあいました。現在も古城公園としてその名残をとどめていますが、倉敷、仙台、姫路、松本など城が残った町がその後、観光都市として大きな発展をとげたことを考えると本当に惜しい気がします。

「殿」の悲しき運命  殿(との)を訓読みすると「しんがり」、つまり一番後ろにいる、奥の方にいる人という意味になります。
戦国時代で「殿軍」といえば殿様を守る親衛隊みたいな感じを受けますが、これが逆。退却を余儀なくされた殿様を逃がすためにわずかな数で殿(しんがり)にがんばって、追いすがる騎馬隊や鉄砲隊の盾になる役目です。当地にはこの絵のようなごりっぱな殿がいた記録は残っていませんが、なぜか「御庭」「殿山」などの字名や「殿谷」などの名字が地元に残っています、ロマンは尽きませんね。

「磯はなび」から見下ろす北側の丘陵に桜谷古墳があります。前方後円墳を中心に13個あまりの古墳群で、と金した馬具や副葬品からこのあたりの首長クラスの墳墓といわれています。昭和初期の国指定史跡ですから全国でももっとも古い史跡になります。
さて、4月上旬にこのあたりを通ると「桜谷(さくらたに)」の意味が納得できます、谷の斜面の両側に、通行する旅人を祝福するようにたくさんの桜の木々が広がっています。王者が眠る陵(みささぎ)に散りしく花びら。ううんロマンですねえ。

八咫烏(やたがらす)
サッカー日本代表のエンブレムでもおなじみ、3本足の八咫烏(やたがらす)は神の使いとして、イワレビコ(神武天皇)を紀の国(和歌山県)から吉野へ道案内する役目として登場します。ここ雨晴ではカラス属のハシブトガラスが主でこのあたりの豊かな自然をねぐらに、毎日他所へ出張してはカアカアやってます。
 奈良時代にはもう「カラス」の名で呼ばれ、万葉集にも「可良須」(からす)として歌われています。
名前の由来はその鳴き声「ころく」からとか「黒し」がなまったものといわれています。

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絶景の雨晴海岸。世界でもあまり例のない、海の上に山々がそびえ立つ姿には心を洗われます。で、そのことに目を奪われがちですが、少し視点を変えて大きな目で見て頂ければもっとおもしろいことも。
3000m級の山々が日本海に一気に「なだれ落ちる」ことも興味深いことのひとつです。そうすると断崖絶壁が海に迫り、超えるに超えられない難所になります。
古来、親不知子不知の伝説で有名な断崖絶壁ですが、なだれ落ちた山はそのまま日本海の「あいがめ」と呼ばれる深海までなだらかに山すそのような形を描いています。
わたしたちは、地上にある分を「山」と読んでますが。水中分の「山」を含めると優に6千メートルの山になります。水が干上がったら富士山どころではありませんね。もっともこれらの山脈も、新潟側から押してきた太平洋プレートが糸魚川のフォッサマグナ帯で地面を押したことによる盛りあがり。人工衛星から見ればじゅうたんのしわ程度にしかすぎません。大地はデカい。

万葉歌「つまま」あれこれ
雨晴(渋谷)といわれれば万葉歌人、大伴家持ですが、当地ではこれにうたわれた木「磯の上の つままを見れば根をはえて年深いからし神さびにけり」のつままの木があまりにも有名です。でもつままの木が万葉集にでてくるのはこの1首だけとのことで「ミスター万葉集の木」にしている地元の扱いは義経ゆかりの地だけに少々「判官びいき」かもしれません。
で、あの景勝、雨晴女岩の木も「つまま」かしらと思ってしまう人が多いようですがあの木は「榎(エノキ)」だそうです。エノキも丈夫で大木になるので、岩が割れてこまるというのもわかるような。

白いキツネは大変
日本に多いホンドキツネは顔や足先、尾の先などに年ともに白い「増し毛」がふえるので真っ白=古キツネというイメージができあがったようです。もっとも狸と違ってキツネの生息域は狭くなる一方。太田、雨晴でもよほどの古老さえ目撃談はないようです。有名な狸のアニメ映画なんかでもスマートに人間を化かし「できる」イメージの強いキツネですが、民話になると数百年は生きないと主人公をはれる白いキツネにはならないそうです。尾っぽが9つに割れるとなるとツル並みに千年は生きないとだめみたいです。白いキツネをやってくのもなかなか大変ですね。赤いきつねはお湯3分で出来ますが・・・・・・。

日本海の凪風(なぎかぜ)
「日本海の荒波」にもまれたブリ、海の幸と言うイメージはから日本海は波が荒いと思われる方が意外に多いようです。しかし実は、能登半島の外海と違い富山湾では波がおだやかなので当たり前なんです。富山湾の西部は湖面のように静かな日が実にたくさんあります。ひょっとしたら、日本海側がシケ気味の日の波と太平洋岸の普通の波と変わらないかもしれません。
地元で「あいのかぜ」と呼ばれる北よりの風が吹いたときには、ひかえめにざわざわ言いだすのがこのあたりの海です。冬の晴れた朝、鏡のようにないだ雨晴海岸に立ちのぼる湯気を「けあらし」といいます。このセピア色の世界を知ると、もうやみつきになりますよ。

富山湾の魚付きの森(魚を育てて守る森林)のほとんどは氷見市にありますが、残りの1割はここ雨晴海岸、岩崎鼻とよばれる部分にあります。航空写真を見ると山から小川を介して滋養分が流れ込み、磯の風情を豊かにしている様子がよくわかります。大伴家持が越中に初めて来たとき、磯の感じがすてきだとか、あまりの月夜の海岸が美しいので馬を止めて見ほれたという歌がありますが、私は、どうやらこの辺ではないかとにらんでいます。というのも国府があったあたりから船や馬でこのあたりまでくると視界がぱっと開け、磯の相もがらりと変わるんです。釣れる魚も違ってきます。「能登半島国定公園はこの磯のこの岩から始まる?」というのは私の説です・・・・。

「磯はなび」の西側、いすの背もたれのように立つ大師が岳の遊歩道でも狸のフンをよく見かけます。ですが最近、交通事故にあい、あわれな姿になった狸をよく見かけます。最近そのわけがやっとわかりました。
ある晩、車の前に狸が飛び出したのですが、猫や犬みたいに猛スピードで飛び出してこないんです。「とっとことっとこ」とユーモラスな感じで飛び出してくるので、よけるのも簡単でしたが、あまりのどんくささに吹き出してしいました。でもお世辞にも敏捷だなんて言えない感じです。狐と並び称される狸ですが、圧倒的に狸好きが多いのは、このせちがらい世の中、急がない(ように見える)ゆったり感からかもしれません。

桜谷古墳群のある台地から、いくつもの石仏が発見されたそうである。
近くの堂の中に、それらしいものが何体もまとめて安置してある。長い年月、土中にあったり、風雨にさらされてきたためか、顔かたちのはっきりしていないものが多い。縄文後期から奈良前期までの(推定)このあたりの豪族、明主のいくつかあった墳墓をあるとき、この地へ移設したものと思われる。土仏坂という名称は、江戸後期以降につけられたのではないだろうか。土仏坂をずっと上へ進むと、右側の山かげに雑草やささにおおわれて、こわれかけた堂がある。この中に、花崗岩で作ったみごとな石仏がある。頭部の形から見て、如来像であることはまちがいがない。

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