太田雨晴の伝説Legend
ここ太田雨晴地区には、古い歴史と文化とともにいくつかの伝説、または、言い伝えが残されています。ここでは、その伝説、言い伝えを紹介します。
【参考・引用】
「太田」-歴史と風土-


紅葉姫(もみじひめ)

太田村浄蓮寺の古記録に伝わる紅葉姫の哀話は、太田の里人により、なつかしくゆかしく語り伝えられています。(以下、原文そのまま)
太田に有明岡※1という小高い丘陵がある。この丘の西すそ一帯を紅葉谷と言っている。その名のように楓(かえで)の樹が谷を埋めて生い繁り、晩秋の候には、きら錦を飾ったようで、またとない美しさであった。養老のころ、税を納めるほか、京都の禁裏御所で、一定期間奉公勤めをするならわしがあった。渋谷の百姓、太郎も、この奉公当番に選ばれて都へ上り、御所の雑役を務めていた。
※1有明岡・・・現在の新雨晴トンネルの上部

ある日のこと、多数女官のなかでも、美人のほまれ高い紅葉姫が部屋で休んでいると、障子を通して、庭先から美しい歌声が聞こえる。哀えんりょうりょうの美声、ひなびた節まわし、思わず聞きほれて障子をあけると、庭の草むしりをしながら歌い続けているのは越の国の若者「太郎」であった。
紅葉姫は思わず、「黒烏、黒烏]と、呼びかけたが、歌に夢中の太郎は、振り向きもせず、いっしょうけんめい歌い続けていた。これが縁で、紅葉姫と太郎は知りあうようになった。
月日、水のように流れ、予定の期限がすぎたので、太郎はなつかしい故郷へ帰ることになった。紅葉姫は、「黒烏の羽をそろえてたつ時は九重の塔も下に見るなり」と、思いのたけを書いて太郎に贈った。この歌のことが天子さまのお耳に入り、大変感心され、「この歌の、下に見るなりとは、黒烏の飛ぶのについて行きたいという意味であろう。」と、紅葉姫を呼び 「その方の自由にまかせる。黒烏と共に越の国へ下るがよい]と、お許しになった。さらに、「鏡にうつる紅葉なりけれ]との御宸筆をせん別に賜わった。

太郎と紅葉姫は、厚恩に感激しながら、旅の仕度もそこぞこに帰国の途につく。相思相愛の二人は、道中なかむつまじく、こまやかな愛情に旅の疲れも忘れて旅路を重ねた。
越中の国へ入ると、宮島谷から金剛寺を経て伏木の古国府まで一筋道、故郷の太田はもうすぐである。しかし、金剛寺へくると、持っていた干飯もなくなり、とても空腹を覚えた。栗でも拾って食べようと、太郎は紅葉姫をそこに待たせて、道ばたの林へ入った。ところが、山深く道に迷って、出られなくなってしまったのである。

待てど暮らせど太郎は帰ってこない。頼りに思う夫を見失い、紅葉姫は、途方に暮れてしまった。
かねて太郎の実家が渋谷の久五郎という百姓だということを聞いていたので、とにかく渋谷へたどりつけばなんとかなるだろうと、かよわい足を引きずりながら道を急いだ。
古国府へたどりついて、里人に渋谷への道を開くと、なかなか難所が多く、海岸には奇岩そばたち、道はいばらがはびこり、雑草が背より高く茂っているという。足弱の堂上育ちの姫御寮、それでも夫を思う一念で、いばらを押しわけ、岩石によじのぼり、清水に渇きをいやしながら先へ進んだ。

ところが、途中谷川にぶつかり深くて渡ることができない。「ああわが夫いずこぞ] 姫は、とうとう力尽きて岸辺に泣き倒れてしまった。
一方、太郎は、どうやら元の道に出たものの紅葉姫の姿が見当たらない。先へ行ったのだろうと古国府へ出て里人にたずね、渋谷の道を走った。
ところが、谷川のほとりに倒れ伏した姫の姿を見てびっくり、抱き起して介抱したが、もう身体は冷たくなり、息が絶えていた。
「せっかく故郷近くしてこの悲嘆を見ようとは。」
太郎は死骸に取りすがって号泣した。秋風一陣、あたりの紅葉を散らし、山河ことごとく紅葉姫の死を嘆くようであった。

その後、太郎は里人たちに呼びかけて、この谷に道を開き、谷川に橋をかけた。里人たちも紅葉姫の死を哀れみ、進んで作業に協力した。
その後、姫の名にちなんで、この谷を紅葉谷、谷川を紅葉川、橋を紅葉橋と名付けたのである。
この橋から約300mばかり南東に、姫の最後の地と伝え場所がある。霊地としてあがめられ、現在でも鎌入れする者がないという。
もみじ姫銅像

この橋のたもとに、毎年12月みそかの夜明け、勇ましい鶏の鳴き声が聞こえると云われています。その声は、なんともいえない猛々しく、清々しいもので、これを聞いた人には必ず幸せがあると言い伝えられています。また元旦の朝には、金の鳥が一羽、紅葉橋の下をくぐって、日本海へ飛び去るという言い伝えもあります。
歌仙といわれた有名な猿丸太夫が、和歌修業のため越中へ行き、有磯浦の磯伝いに杖を曳きました(散歩)。
その折、この紅葉川の下流を通った時、紅葉姫の悲しい伝説を聞いて、
奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき
と歌ったと云われています。
謡曲「藤」は、氷見市田子の白藤を主題にしたものですが、この謡曲に出てくる谷川だという説もあります。
馬
紅葉川に犀(サイ)が住んでいた。 ある年の夏、一人の百姓が、この川辺に馬をつないだまま草を刈っていると、その馬がいつしか犀の子をはらんで名馬を産んだという。
義経岩(義経伝説)


1187年、文治年間に源義経一行が奥州に落ちのびるため、山伏姿に身をやつし、この雨晴の地を通過しました。義経はこの時、にわか雨に遭い、弁慶が岩を持ち上げ、その岩陰で雨宿りをしたという伝説があります。「雨晴」という地名はこの伝説に由来しています。義経が雨宿りをしたと伝えられている岩には、人が15、6人も潜れるほどの穴があります。いつの頃からか、それは義経岩と呼ばれるようになりました。この岩の周辺には、「義経の腰掛」や「弁慶の足跡」といわれる跡が残っています。義経岩の上には義経神社が建てられており、近くの人々は、毎年、6月10日に岩上の堂に旗を立てて祭りを行ない、義経主従を偲んでいます。
また、近くの伏木には歌舞伎の「勧進帳」のモデルとなったとされる(諸説あり)「如意の渡し」がありました。「如意の渡し」は、近年、渡し船を運行しておりましたが、新しい橋の架設とともにその歴史を閉じました。



こぬかえび
昔、弘法大師がこの太田浦へおいでになりました。当時は、不作続きで、村は貧乏のどん底でした。これを見られた大師が、こぬかを海に撒かれると、それがたちまち、小さい海老になりました。これを捕って食べ、飢えをしのぐことができました。
その後、この海老は「こぬかえび」と呼ばれるようになりました。
ところで昭和20年前後の大変な食料難時代、太田浜では例年になくたくさんの「こぬかえび」が捕れて人々の飢えを救いました。村人は、やっぱり弘法大帥が、この太田村を救おうとなさったのだ、と感謝したということです。この海老は、太田浦と六渡寺(射水市新湊)の浦でしか捕れないそうです。
※ここで言う「こぬかえび」は、淡水に生息するヌカエビ、ヌマエビとは違うものです(下記参照)。
こぬか = 米ぬか(玄米を削って精米すると出る粉で糠層や胚芽)
ヌカエビ(糠蝦、学名 Paratya improvisa )は、十脚目ヌマエビ科に分類されるエビの一種。日本固有種で、近畿地方以北の本州北部のみに分布する純淡水生のエビである。日本では同属種ヌマエビ P. compressa との間で分類の混乱があったが、本種は「ヌカエビ」と「ヌマエビ大卵型」あるいは「ヌマエビA型」と呼ばれていたものが同一種としてまとめられたものである。 出典:Wikipedia
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