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- 太田の自然・文化・歴史> 臨済宗 国泰寺
国泰寺は北陸路には数少ない臨済禅の道場で、臨済宗国泰寺派の大本山である。二上山中の草庵から正安年間(1300年頃)摩項山東松寺を創開。後醍醐天皇の勅願所としても名高く、「北陸鎮護第一禅刹特進出世之大道場」として京都南禅寺と同格の勅願所となった。その時いただいた勅額『護国摩頂山巨山国泰仁王萬年禅寺』から東松寺を改めて国泰寺と称する。
この寺は、創設以来、名僧や高僧を輩出し、六百年間の多難な歴史の中で脈々と臨済宗の法燈を受けついできた。現在でも県内はもとより、全国から、仏の道を求め、参禅、修行の雲水、有志者が集まってくる。
「後醍醐天皇勅願所 大本山国泰寺」と彫られた石碑を右手にながめ、巨木におおわれたゆるやかな坂道を登りつめると総門がある。『国泰禅寺』とかかれた額があがっているが、中国の高泉の書いたものである。左手構に勅使門がある。朝廷の使者を迎えるためのもので、後醍醐天皇をはじめとして、朝廷とのつながりの深さを物語っている。
境内は約一万平方メートルの広さをもち、全域が、静かな道場になっている。境内には多聞蔵・鐘楼・観音堂・三門・法堂・方丈・座禅堂・庫裡・天皇殿・開山堂利生塔等の諸伽藍が建ちならんでいる。
国泰寺では毎年6月2・3日、禅師をしのぶ開山忌が行なわれる。この日は、禅師が亡くなられた興国6年(1345)6月3日をしのぶもので、国泰寺の主な行事である二祖三仏忌の中でもっとも重要な、そして大きな法事である。太田地内の大安寺、辰口寺、至道寺、江雲庵や氷見市の仏心寺、実相寺、弘源寺など、国泰寺の末寺の僧尼はもちろん、壇信徒衆を挙げて行なわれる。当日は、各地より、参詣者、見物人も多数集まり、盛大に執り行われる。
この日とりわけ人気をよんでいるのは二十数人の虚無僧による尺八の合奏である。般若経に和して奏でられる曲は、宋の普化僧、張参のつくったものといわれ、禅師の師、法燈国師が中国より伝えたもので、国泰寺では、妙音会として残っている。ちなみに、虚無僧とは、南北朝時代、楠正成の孫正儀が僧名を虚無と号し、尺八をもって、天下を流浪し修行と仏道をひろめたことが起源であるという。
1296(永仁4) | 長野県に生まれた御開山の慈雲妙意国師(1274〜1345)は北陸の地に栄える曹洞禅を学ぶため、二上山を通過中、その自然の壮厳さに感じ、一生の学問の地と定め、庵室を設けた。その後たまたま通りがかった雲樹寺開山孤峯覚明と知りあい、その師である興国寺法燈国師のもとで修行したが、法燈国師なきあと、孤峯覚明を師とし、印可を受け、法燈の法孫となった。 |
1299(正安元) | 二上山中の庵に戻り、ここに摩頂山東松寺を開く。 |
1327(嘉暦2) | 後醍醐天皇より清泉禅師の号、および紫の衣、皇后裁縫の七条袈裟を賜わる。 |
1328(嘉暦3) | 後醍醐天皇から勅額「護国摩頂巨山国泰仁王萬年禅寺」を拝領し、天皇の勅願所となり、北陸鎮護第一禅刹特進出世大道場として、京都の南禅寺と同じ位の官寺に定められた。 |
1339(延元4、暦応2) | 光明天皇が足利尊氏に、日本64州に安国寺の建立を命したとき、国泰寺を越中図の安国寺と定めた。尊氏は、伽藍を整備し、寺領を寄付した。 |
1345(興国、貞和元) | 妙意国師、「天に月あり、地に泉あり」のことばを残し72歳でなくなられた。光明天皇は妙意の徳をしたわれ、「慧日聖国国師」の勅諡をおくられた。 |
応仁以来の戦乱は、全国の都市、農村をおそい、あらゆるものを破壊した。上杉謙信が越中の豪将神保氏と戦った時、神保氏と深い関係にあった国泰寺が、その兵禍をまぬがれうるだろうか。その壮厳を極めた広大な伽藍は開山国師の木像のみを残して、すべてが灰になってしまった。
1545(天文14) | 二四世雪庭の時、後醍醐、光明、後奈良三帝の勅願所として復活した。 |
1585(天正13) | 守山城を占領した前田利家が、居館を修築するために、「国泰寺の方丈を徴用するが、残りの小寺や山林については、従来どおり安堵する。」(前田利家安堵状)旨の書状を出して方丈をとったため、天文〜天正年間(1532〜91)に寺領の現在地に移ってきたようである。 |
1708(宝永5) | 三七世天英の時、将軍綱吉より、法燈派大本山に定められた。 |
徳川幕府や前田藩に保護され、享保年間には萬壑和尚等によって伽藍の大整備が行なわれてほぼ現在の形となった。明治維新では排仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門両和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めた。また西田幾多郎や鈴木大拙が若き日に北条時敬の勧めにより雪門に参じた。
1905(明治38) | 12月15日、国泰寺派の一派をたて独立する。臨済宗法燈派大本山として営々と築きあげた勢力は、文明開化排仏運動によって衰え、臨済宗相国寺派に吸収されていた。その後、努力の結果、独立し、現在に至る。 |
先住心田和尚は「人命尊重」を祈願して利生塔の建立、月泉庭や龍淵池(放生池)を整備し、大衆のために禅堂を開放して団体・個人の坐禅指導に努めた。御開山の「己事究明専一なり」の言葉を奉じて、現在も大衆に開かれた禅道場を目指して励んでいる。
【参考・引用】
・「太田」−歴史と風土−
・大本山国泰寺のパンフレット
・高岡の文化財(昭和58年3月1日発行)高岡市教育委員会
【案内】
所在地 | 富山県高岡市太田184 TEL 0766-44-0610 |
拝観時間 | 随時(午後4時頃まで) |
拝観料 | 境内無料 |
アクセス | 加越能バス 高岡駅より守山経由氷見行 国泰寺下車 徒歩15分 JR氷見線 島尾駅下車 徒歩40分 能越自動車道 高岡北ICより車で約15分 北陸自動車道 小杉IC、砺波ICより車で約50分 |
ホームページ | https://www.kokutaiji.jp/ |